あれから44年か~

 44年前の5月15日、高校1年生の私は多分いつものように授業や部活(バレーボール)に励んでいたと思う。

 

その日は沖縄が日本復帰を果たした日である。

 

その前年の中学3年生の時は、部活のバレーボール部が全島大会で準優勝して、優勝校と共に九州大会に出場を遂げた。まだ日本復帰前の事で、パスポート持参での船と汽車を乗り継いでの2日掛りの遠征だったと記憶している。しかも、私が生まれ小学校3年生の1学期までを過ごした宮崎県が会場で、宮崎市内の体育館には隣町の生まれ故郷である国富町から、幼馴染み達が駆けつけてくれたのだが、他県代表との実力差が大きく1回戦で儚く散った。(しかも、レギュラーでなかった私はピンチサーバーでの一瞬の出場で、応援に駆けつけてくれた幼馴染みに今でも申し訳ない・・・(笑))

 

九州は先の戦争でアメリカ軍が沖縄上陸をする前の昭和19年に、家族(幼い長姉と生まれて間もない次姉を伴って)、親戚が疎開をし、お世話になった場所だ。鹿児島、熊本、大分(ここで長姉は病死)を転々として戦後に宮崎に落ち着き、次々姉、兄、そして私が昭和31年に生まれた。

 

日本復帰44年、戦後71年、それでも沖縄の米軍基地はなかなか縮小しないし、辺野古新基地の問題も複雑になり、本土からの「差別」と捉える人々も多い・・・

 

掲載した45年前の写真は、大会が終わり九州旅行をした時のもので、ひと月前の大地震で大きな被害を受けた熊本城に向かう部活仲間の姿や、阿蘇山の火口に立つ私や別府温泉も写っている。旅の間、宮崎うまれの私は本土の文化や通貨の円に何の違和感もなく触れていたが、日本全国の中学生と同じ教科書で学んでいたとはいえ、生まれた時からアメリカの統治下でドルを使いながら育った殆どの部活仲間は、その時に何を感じていたのであろうかと、45年経った今頃になって思うのである・・・

 

そんな沖縄に重なるのではないかと思う事として、熊本や大分、東北、阪神淡路の大震災に遭われた方々、古くは広島、長崎の原爆に遭われた方々からすると、戦後生まれの私達は同じ日本の中で安穏と暮らせる日々を続けている。そんな中、思いもよらぬ大震災に突如として襲われた被災地では、それこそ「差別」を感じておられる方々も多いのではないか・・・

 

以前、何かの機会に「差別」とは相手を知らないところから起きると書いた記憶がある。沖縄、熊本、東北、そして原発のある土地や世界中の混乱地にせよ、現在は戦争や紛争や地震そして汚染などの危険性が少ない限り、その土地を訪れて歴史や文化そして暮らしぶりに触れ、地元の人々と腹を割った話をしなければならないのであろうと思う。しかし、それができない環境の人々が大半であるから、私は、溢れる情報の中から人として真実を見抜く力を養い、眼を背けず「差別」を無くす勇気を少しでも持ち、そして一歩でも行動することから始めなければと思う、昨日の日本復帰記念日である・・・

 

 

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    みさこ (水曜日, 18 5月 2016 20:13)

    宮崎でバレーの試合をやったこと、幼な友達が駆けつけたこと知らなかったなー。長い年月で忘れてしまったのかもね。
    今日の地元紙に、「終戦直後は50%以上の基地依存から日本復帰時は15%になり、現在の基地依存はわずか5%。米軍基地は沖縄経済発展の最大の阻害要因。基地と経済や沖縄振興を巡り、米軍基地の存在を正当化するための誤解が一人歩きしている。」ということが掲載されていました。

  • #2

    ともさん (日曜日, 22 5月 2016 11:30)

    何かコメントをと思っているうちに悲惨な事件が・・・

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